大通寺
所在地:岐阜県養老郡養老町宇田308-1

(本堂正面)

徳源寺八世江松軒の授業寺です。
ここは宇田一族発祥の地
もとは宇田村といい、土岐の一族『土岐康貞』が始まりである。

由緒

当寺は応永年間(1394〜1427)源頼光の後胤土岐頼清の五男土岐悪五郎康貞の菩提所で開基となっています

元禄六癸酉年(1693)5月24日大通寺竺翁の記録
村人や古老の申し伝えをまとめると、関ヶ原の戦の時、寺院も宝物や記録はすっかり焼失した。住持は繭玉首座といったが、焼け跡に再び小さな草庵結んで住職を勤めてきた。慶長14年(1609)妙心寺派下の愚谷和尚という人によって、玉首座を正式の僧侶と認められた。玉首座が寂した後は、大圓宝鑑国師(愚堂東寔・1661遷化)を中興開山に迎え、大道真源禅師(東陽英朝・1504遷化)を開山とし、なき玉首座の弟子を留守番に据えた。

裏から見ると養老山脈が見える。国定公園に指定され自然のままの山脈で、四季を通じて美しい姿を見せてくれる。
大通寺は名神高速道路より三百メートル程しか離れていないので、肉眼で見ることができる。目安は養老バスストップの北西方向である。

土岐悪五郎康貞の石塔
当寺境内に康貞の墓石は、二男の宇田二郎康任が、父、土岐悪五郎康貞の菩提を弔うため、墓を建てた。

『美濃明細記』に「多芸郡宇田村大通寺に土岐悪五郎墓康貞の碑が有る、其の子康任が之を建てた」と
康貞は弓を得意とし、世の人は土岐悪五郎とはやしたてた

正平七年(1352)兄土岐頼康に従い、南朝と荒坂山で戦った。康貞は土岐悪五郎三河守、又は、頼名といい、太刀をとっては剣術早業達人として世に知られていた。八幡合戦のときは、水色笠を被り、大太刀をふるって軍功があった。敵方は矢を雨のごとく射かけてくるので、進むことが出来なかった。康貞は決死の覚悟で敵方の陣に討ち入り、和田五郎正忠と戦って、これを討ち取ったが、そこで戦死した。


康貞の子供
嫡男
行春、久々利太郎
可児郡久々利に住したので久々利と称した。

康貞二男
康任、宇田二郎
多芸郡宇田村に住したので宇田氏を称した。大通寺に父、土岐悪五郎の墓を建てた。

康任三男
羽崎三郎光直
可児郡羽崎村に住したので、羽崎氏を称した。

免除黒印書
領内多芸郡宇田村大通寺境内二石七斗六升三合並竹木等事任先規免除如有来不可相違者也依如件
承応二年十一月十六日(1653)氏信
貞享二年十二月朔日(1658)氏長
延享二年十二月五日(1745)氏英
安永二年十二月十五日(1774)氏教
文化四年十二月十五日(1808)氏庸
天保十二年12月十五日(1842)氏正
安政三年十二月十五日(1857)氏彬
以上205年間黒印が続く

両国通史頼里に依る
正平七年(1352)閨二月南北朝の時頼康軍勢を率いて、西上し近江国四十九院に義詮と合い八幡攻撃に参加するや悪五郎も此れに属す三月二十七日洞峠犬墨山の戦いに破れ戦死す、暴俣町明台寺に基あり。
もと墨俣川端にあったが犀川改修工事により現在の場所に移る

大通寺略史(昭和四十七年編集)1972
大通寺は後村上天皇の時代、源頼光十三代後胤土岐三河守康貞(遺称宇田五郎)が今より620年前正平8年その砦趾を改めて草創した寺で、智源山と号し其の一族の墓がある、現境内は大垣藩主戸田氏の寄付せられたもので、歴代藩主より二石七斗六升三合を賜わっていたお墨付がある
当寺は臨済宗妙心寺派直末聖沢院大雅派で本尊は釈迦如来で、作者不明の観音菩薩がある。開山は永正元年妙心寺大本山六世雪江宗深禅師の法嗣大道真源禅師で大円宝鑑国師が中興開山である。
詳細は関ヶ原の戦の際記録等兵火に罹り焼失不明である、第七世朴岩素淳禅師は白隠下霊源禅師の法嗣で印可状、授戒の血脈の印刻板、亀鑑が現存している

大通寺住職一覧
開基土岐悪五郎(1394〜1427)
開山大道真源禅師(東陽英朝)永正元年八月二十四日
月庭玉公首座(天和三癸酉年8月8日(1683)(天文八年三月八日(1539)
琥嵒珀公首座(慶長五年九月一日(1600)
松岳貞公首座寛永十九年八月二日(1642)
月峯円公首座寛永十二年九月二十一日(1643〜I681)
大春元公首座承応四年1月十日(1655)
大円宝鑑国師寛文元年十月一日(1661)
泰翁良倹禅師慶長五年(1世)
慶長五年関ヶ原の合戦により諸堂焼失、直ちに再建
二世的翁玄岫禅師天和二年一月二十一日(1683)
三世竺翁会琳禅師元禄十年七月十三日(1698)
貞享三年庫裡再建(1687)
元禄二年本堂再建(1689)
四世霊瑞祖跡禅師元禄三年二月三日〜享保十七年十月三日
(1690〜1732)
五世泰宗玄康禅師
元文二年11月十三日〜宝暦八年十月八日
(1737〜1758)
六世栴芳一枝禅師宝暦九年三月十三日〜明和六年六月二十一日
(1756〜1769)
天真外公首座明和六年二月十七日(1769)
七世朴岩素淳禅師明和七年二月十三日〜寛政六年十一月二十五日
(1770〜1794)
天明四年碧巌録会
八世虎山中虔禅師寛政七年四月二十九日〜寛政九年九月十七日
(1795〜1798)
九世陶翁善会禅師文化三年三月二十二日〜天保八年六月八日
(1806〜1837)
文化七年大応録会
十世拳嶺主膺禅師天保九年九月二日〜安政四年十二月十一日
(1838〜1857)
十一世泰山祖安禅師慶応二年八月六日〜明治十六年三月二十日
(1866〜1883)
明治九年四部録会
12世著山紹理禅師明治十七年十月二十七日〜明治三十三年八月三十日
(1884〜190)
北漢祖芳禅師明治三十八年五月四日剥職(1905)
十三世卓道元成禅師明治四十二年六月二十四日〜昭和三十七年九月十五日
(1909〜1962)
大正七年十二月本堂再建
大正八年七月庫裡再建
大正十五年一月二十四日地蔵堂再建
十四世宝嶽龍昌禅師昭和三十七年九月二十八日〜平成五年三月四日
(1962〜1993)
昭和42年12月炊事場改修
昭和五十六年12月玄関、上間増築、知客寮増築

地蔵祭りについて
永年宇田地区(平木、市場、北屋敷)の青年団が主催して来たが、昭和四十七年八月二十四日の祭りに当たり青年団僅少のため、主催不可能の為に断って来たので、檀家総代後藤精市に相談したところ、寺だけで簡素にお祭りをすれば良いという意見であったが、平木区長奥村鋭一に相談、同氏は宇田の犬通寺であり、平木の大通寺でもあるから、其の方で主催したいという意見。同氏の尽力により平木市場は二区、北屋敷一区の合計五区に分けて、交代で主催することとなり、第一回は早瀬源七のとりもちにより盛大に執り行なわれた。
今後とも永年に盛大に執り行なわれるものとして感謝に堪えない。
尚青年団が主催していたのは泰山和尚が青年団に学問を教えていたのに対しての感謝のお返しとして祭りを執り行なわれていたものと伝えられている。