昭和26年に着工、昭和28年に竣工しました。鉄筋コンクリート造りで、内部は戦前の本堂と同じ様式です。
荘厳品(そうごんひん)は昭和42年蘇山禅師(そざんぜんじ)百年遠諱(おんき)に完了し、禅宗らしく簡素で落ち着いた感じがします。
目を引くのは、八畳敷きの天蓋(てんがい)です。後方は位牌堂(いはいどう)になっており、檀信徒の位牌がまつられています。
本堂内部では、毎歳忌の支度が整った内部写真。
正面に歴代住職の頂相を掲げ、右に諡号や綸旨が掲げられ、左には遺偈や入祖堂の法語を掲げる。
文久2年に完成し、徳源寺では最も古く、重要な建物です。
前門(ぜんもん)には白隠禅師(はくいんぜんじ)の「爪牙窟(そうげくつ)」の額が掲げてあり、 この禅堂を〔爪牙窟〕とも呼びます。前門が正面で、公式の出入口です。
反対を後門(ごもん)といい、通常の出入口として使います。
どちらも出入りに際しては厳格な作法があり、特に私語厳禁の〔三黙堂(さんもくどう)〕のひとつです。
内部の敷瓦(しきがわら)は、陶器製で各種の製法で焼きあげてあり、 「織部(おりべ)」「鉄釉(てつゆ)」「黄瀬戸(きぜと)」「志野(しの)」「灰釉(はいゆ)」 と、江戸時代末期における、陶板作成技術水準の高さを証明する貴重な文化財です。
雲水(うんすい)は畳一畳が与えられ、坐禅(ざぜん)も睡眠もここでします。
夜具は一枚の布団を二つ折りにした「かしわ布団」のみで生活しています。
開単当時の禅堂は、今の開山堂付近にありました。
昭和12年頃、禅堂と開山堂の入れ替え工事と、境内の起伏を平坦にし、今の状態になりました。
禅堂付近にある建物の中で、宝泉窟(ほうせんくつ)、地蔵堂(じぞうどう)は動いていません。
平成10年10月10日、解体修理落慶法要を行いました。
建物は昔のままに解体修理を行いました。
昭和10年に岐阜県海津郡(かいづぐん)の豪農早川氏の寄進によって建てられました。
中央に卓洲禅師(たくじゅうぜんじ)、右に蘇山禅師(そざんぜんじ)の木像が安置されており、左側には早川家の位牌が安置されています。
天井には川合玉堂(かわいぎょくどう)画伯の名作「雲龍図(うんりゅうず)」が掲げられている。
画伯自慢の作品である。
川合玉堂作雲竜図
墨の濃淡で空間の深さを表し、体躯を複雑に捩れさせることによって、絵全体の動きを出そうとしている。
肩から流れる霊気も濃墨の線で強調されており、あたかも天衣のように翻っている。
腕なども筋肉が誇張されていて力強さを表現している。
鉄筋コンクリート造りで、昭和55年に完成しました。
内部は純木造造りで、戦災で焼失した大書院の様式を再現しています。
本堂との間の石庭は〔瑞心の庭〕といい、石組を『心』に配してあり、どこから見てもいずれかの石かが隠れているよう に配置されており、いわゆる「虎の子渡し」である。
本堂と庫裏の間にある入り口は「大玄関(おおげんかん)」と呼ばれ特別な人たちの出入り口になります。
裏に椀頭寮(わんずりょう)という配膳室があります。
竹中工務店が工事を担当しました。
中門から見た大玄関。
昔の大玄関は中門の正面にあったが、今は少し南に寄っている。
このような屋根を「唐破風」という。
創建当時に政秀寺より移築したと伝えられる建物で、垂木の組み方(扇垂木)や、姿の優雅さは垂涎の的である。 12月31日午後11時45分ころより除夜の鐘をつき始めますが、除夜の鐘をつく人が大勢訪れていたが、鐘楼の老朽化に伴い、今は本堂横の鐘工を使用している。
銅製の涅槃像を安置し、後部に五百羅漢を祀った、日本では珍しい仏殿である。
碧松軒時代に建造された。道一和尚という遊化僧が発願して浄財を募って完成した。
道一和尚は別名「梅干し和尚」といわれたそのいわれは、募財を集めるたびに、戦争や風水害に逢い、募財のすべてをなげうって梅干しを購入し献納したため、三度目にしてようやく涅槃像の完成を見た。
建物ができあがった時、道一和尚は病を得て臥せっていた。
戸板に乗り式に参列し、まもなく遷化した。
釈尊が涅槃に入られた姿を表し、1丈6尺の身長、北を枕にして西面してた姿です。
後方には五百羅漢が祀られている。
明治41年代版、昭和時代中期の徳源寺のご紹介です。
現在の徳源寺との違いをご確認しながら、お楽しみください。
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